昭和46年10月04日 朝の御理解



 御理解 第5節
 「これまで、神がものを言うて聞かせることはあるまい。どこへ参っても、片便で願い捨てであろうが。それでも、一心を立てればわが心に神がごさるから、おかげになるのじゃ。生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことなし。此方が祈るところは、天地金乃神と一心なり。」

 これまで神が物を言うて聞かせる事はあるまい、どこへ参っても片便で願い捨てであろうがと昨日御理解第四節を頂きましたね、金光大神の言う事に背かぬ様によく守って信心せよと言う、ところ頂きました。今日はその次の五節を頂く訳です、金光大神の言う事に背かぬ様にと言う、教えを受けるその教えを生活の上に頂いて行くと言う意味で頂きました。此処では金光大神の言う事に背かぬ様ですけれども、どこへ参っても片便のねがい捨てであろうがと、今まではどこえ参っても。
 どうぞお願いしますと言えばそう言うてかえって来るだけの事です、ところが金光大神は天地金乃神様の御心をお伝えになる。御理解又は御教えをお伝えになるだけでなく、お願いした事に対して御返事を下さったです、それは右が良いぞ、左が良いぞと言った様な風に、その場その場で御伝えを下さった、言うなら御神意を伺って下さった、それからその御神意を伺ってそれに対して、お答えをして下さった。
 そう言う意味でここでも矢張りそうです、皆さんがこうして御教えを受けられるだけではなくて、今日はどこそこにやらせて頂こうと思いますがと、どうさせて頂きたいがと言うお届けをすると、それはせんが良いからとか、明日したがよかろうとか言う風に返事頂く訳でしょう、これは神様がその場その場で返事して下さる、いわゆる片便の願い捨てでなく、こう思いよりますので宜しくお願いしますと言うただけではなく、それに対して一々答えて下さってある。
 ですから金光大神の言う事に背かぬ様にと言う場合は、そういう二つある話しですね、こう言う心掛けにならなければいけないぞと、それでは道理に合わないぞと、道理に合うた話、いわゆる御教えを下さって、私どもの行き方を示して下さると、言うだけでなくて、先日から一寸お話しましたけど、久留米の古賀さんの場合なんかもそうでした、或る矢張り難儀な問題、どうでも右にしたが良い様に思う。
 これは私が人間的に考えても古賀さんそれはそうしたがよかよと言うごとある感じ、けれど神様は古賀さんの言われる事と反対に右といわれりゃ、左が良いぞと、それでも不安になるから又翌日でしたかその翌日でしたか、又そのお伺い実はこうこう言う様な事情になっとりますから、先日お伺いしたあれは間違いなかったろうかと、念を押してお伺いをされる訳です。そしたら神様は矢張り同じ事であった。
 この事はもう一週間位なりましょうかね、本当にそうしておつて良かったと言う様な結果が生まれてきた、本当に神様のおうせ通りにやっておれば、有難いと言う事がわかる、だからそう言う神様のおうせ通りに、させて頂くと言う事がです、有難い事だけでなくて安心だと言うところまで行かなくては駄目です、ところが中々ね人情が強いですから、どんなに考えたって人間心で言うならば自分は右の方が良いけれども矢張り、そこに迷いがある、そこで御神意を伺ってと言う事になる。
その後にそうした御礼のお届けを聞かしてもろうて、私自身が思う。成程神様のおうせ通りにやってさえ行けばいいんだなと言う事がわかる、片便ではない、伺った事をすぐ返事をもって教えて下さる。すぐ腹が決まる。昨日日曜たびに参られますが、久留米の梅崎さん、もう合楽に御縁を頂かれて、椛目からこうして十四、五年にもなりましょうかね、一人でささやかなお店をしておられます。
 昔は非常に熱心な久留米教会の御信心をそれこそ、大変熱心な信心をしておられた、まあこれはほんに余談ですけれども一昨日でしたか、四時の御祈念を終わらせ頂いたら、ここに楽の御用をしてある先生で宮原と言う先生がおりますが、鼓、琴、笛なんかを教えて頂いてる先生です、こちらも久留米の大変有名な信者さんでした。その方の事をハッキリ頂きましてね、頂いてから久留米関係の御縁を頂いておる人達で梅崎さんも矢張りそうです、それから矢次さんもそうです。
 矢次さんなんかもう久留米では大変なおかげを頂いた方ではありますし、それが当時の椛目に御縁を頂いて、現在信心が続いている訳です。石橋先生ですね、初代の石橋先生の御霊様にお礼を申さして頂いておる時に、その事を頂いたんですけれども、あの当時の御信者さん方というものがもうほとんどなくなってしまっている、それはもう大した事でしたね、御本部参りに千人参りがあると言う位ですから。
 久留米から本当に久留米を上げてと言った様なもう、久留米に居って久留米の金光様にお参りせんなら肩身の狭い位に、例えばあの通町あたりの大きな商店なんかそうでした、大きな大商人が御神縁を頂いてそしてあげんおかげを受けました、そう言う人達が皆なくなって仕舞ました、居ない、所謂後も続いていないと言うのが実情なんです、そう言うなかに在ってね、合楽に御縁を頂いておったおかげで、金光様の御信心を細々ながら続けさせて頂いておる事を、御礼を申しておる事でした。
確かにそうですね、梅崎さんにしろ矢次さんにしろ若し椛目に御縁を頂いてなかったらもう言うなら外の方達と一緒になくなっておったかもしれませんね信心は、けれども合楽に御縁を頂いておったおかげで、信心が細々ながらも続いておると言う事、その事を御礼申し上げる、その事を御礼申さして貰うて、四時半に下りました、下りらして頂きまして、丁度矢次さん夫婦が参って来た、あら今あんた達にいわにゃん事を頂いておったがと、言うて今のその事を話した事でした。
 あんた方がもし合楽に御縁を頂いてなかったら、もう言うならとうの昔金光様の信心はなくなっとっかも知れん、それはあんた達よりもっともっとおかげ頂いて、あんた達よりもっともっと素晴らしい信心を頂いとった人達すらが、皆なくなってしまうとろうが、と合楽で御縁を頂いておるからこそ、ここに信心がまたここに毎日お参りも出来るし、何とは無しに信心が続いていると言うのは合楽があったおかげじゃ。
 その事を御礼申さして貰わにゃいかん、その事を此処に参って来たら一番口に石橋先生の御霊様に、親先生おかげであのままだったら信心が切れておるかも知れませんと言うところを、おかげ頂いて合楽に御縁を頂いたおかげで、親先生に頂いた信心が細々ながら、こうやって続けさせて頂いておりますと御礼申せと言う事でした。考えてみると本当にそうですね、久留米関係の方がお参りして来ておると、言うだけでは妙な話でしたけど御縁を頂いておったおかげで、今日まで続いておる。
 それが何と言うでしょうか梅崎さん辺りにしろ、矢次さんにしろそう言う大徳の先生のところで御信心頂いておったものですから、その時分の信心と言うものが一つの信心の型と言った様なものが、その矢張りしみ込んでいるですね、だから中々御理解を頂きませんね、久留米は御理解がなかった訳ではありますまい、先生お話になっとられましたけれど、甘木関係のようなそれこそ天地の道理、天地の御恩恵を懇懇として、説き明かされると言う事がなかった。
 いわゆる型便の願い捨てと言う様な信心から、今日言うところの御神意をうかごうて親先生が右とおっしやったから左とおっしやったからと言うて、言う通りにしておればおかげになったと言う信心が濃厚だった。甘木の場合なんかは金光大神の言う事にそむかぬ様と言う、教えを頂いてそれこそ水一滴でもお米一粒でも、枯れ葉一枚でも、枯れ枝一本の上にでも、御恩恵を感じてそれを大事にして行くと言った様な風に、そう言う風に信心が表れて来たと。
 そこんところ例えば合楽の場合はその両方か丁度車の車輪の様に一緒に頂いていると言う様な感じが致します。こうやって朝晩御理解を頂いて、それは不思議に矢次さんなんか毎日参ってみえますけれども、まずほとんど御理解を頂かれませんですね、御理解を。もう本当に不思議に思うくらい、なら梅崎さんなんかの場合なんかもそう言う難儀な問題で日曜度には参って見えます、丁度そこで皆が御理解頂きよるときじゃけれども頂いて帰られません、やっぱりお願いして御神意を頂かれたらそれで帰られる。
 だから例えば矢次さんにしても、梅崎さんにしろ、今日私が言うておるところの金光大神、いわゆる片便の願い捨てでない、合楽に参れば片便の願い捨て、ではない答えを聞いて帰られる。例えば現在久留米にお参りさせて頂く成程御理解は下さるかも知れませんけれども、ならお伺いした事な対して右が良いとか左が良いとかは教えて頂けん、よし教えて頂いたところでそれがそんなおかげになって行かないと言うこと、そこで皆信心を止めて行ってしもうた。
 ですから金光大神の言う事に背かぬ様にと言う事の二つのところが、これが今言うなら甘木関係の御理解を以て教えられた、久留米の石橋先生辺りの様に御神意を伺って、一々御神意を伝えられたと言う事で返事を頂いて帰られたと言う、二つがならなければいけない、それを此処の場合は頂いとると言う感じが致します。それも私はある意味あいでは初代、先覚の先生方が言われた信心よりも、又一段と現代社会に於いて布教するならば、合楽の行き方の方が段々ほんなものになってゆきよるのじゃないかと思う。
 御物を大切にする時代から、御事柄の時代に推移していっている。いわゆる移っていっておる、そこを合楽の場合は通らして行っておるのですから、極端な言い方だけれどもう甘木の行き方では古か、と言う様な事も言えん事もないのです。そこんところを私が独創的なものであると言うのではなく、矢張りどこまでも金光大神の教えられる事を深く広く頂いていると言う事にすぎません、矢張り金光大神のみ教えを基にしてであります、ですからね矢張り此処ではどうしても成程それは。
 御神意を伺うと言う事は信心が段々わかれば要らん様にもあるけどね、矢張り間違いがないです、御神意頂いてゆけば、商売人が物を一つ仕入れるでも、仕入れさして頂く事をお願いじやなくて、お伺いをして仕入れて行くと言う、お百姓さんであるならこんどは何を造るとこう言う、どう言う種を蒔かせて頂いたらよいかとお伺いして、御神意道りに動くと言う事の方が確実である、本当のおかげに近付いてゆける。
 それは御神意を頂くと言う事は古賀さんあたりの様にすぐ答えが出て、矢張り親先生のおっしやる通りにしとって良かったと言う様にです、又場合にはそれと反対の場合もあるのです、けれども本当の意味に於いてのおかげに近付いてゆけるです、これだけは間違いはない、これだけは御神意を伺うてゆかにゃならんのです。又たとえて言うと大根とほうれん草を作ろうと思いますか、どちらを大根が良いぞと、久富さんなんかは必ず御神意を伺ってなさいます、それで大根を作る。
 ところが今はほうれん草が高かったけど大根は安かったと言う場合も有るのですよ、だから目の前のおかげで金光大神の言う事を聞くとか承るとか仕ると言うか仕ると言うことはその場で言われた通りにした方が、儲かるといった様な意味ではないです。本当のおかげに進んで行くために、矢張り御神意を伺い、伺いやらせて頂かねばならぬ事であり同時に御神意を御教えによって頂いて、その教えを金光大神の言う事に背かぬ様にと、二つのところが有る訳です。
 それを一番実行しておられるのは高橋さんですね、例えば昨日子どもが自転車を買おうと言うけどそれを御神意をいただかれる、どげなとを買わせて頂いたら良いだろうか、大人も子供も兼用で使われる様な自転車がようろうと、と言う風にですね、もう一々御神意を頂いて、例えば食器なら食器を買われる、寿司やさんですから、海苔なら海苔を買われる、今大量に仕入れたがよいか少しづつ買ったが良いか、高い方が良いか安い方が良いかと、もうこれは高橋さんの場合にはその通りを行じられとる話しです。
 なぜって、勿体ないです、今合楽ではそれが出来るのですから、いわゆる片便の願い捨てでなくてそれを聞いて帰られるのですから、しかもそれが今御神意通りにしておれば、それが今どうと言う事ではないけれども、私を見て下されば分かる、御神意通りにしたがっておけば、絶対のおかげにつながって行く本当の意味に於いてつながって行くこれは、それと同時に今申します教えを頂いて、教えを生活の上に表して行くと言う行き方と、その二つを相まって行かねば、現在の合楽ではそれが出来るのですから。
 それが頂いて帰れるのですから。昨日梅崎さんが参って見えて、もう昨日はそれこそ感動いっぱいでお参りして参りました、親先生何年間お伺いをしお願いし続けたが本当に、通り町六丁目の角でお菓子屋をしておられます、小さいささやかなお菓子の小売りをしておられる、その通り町が道が広くなるためにはあそこ一軒が残っております、もう矢のつけ火のつけ立ちのく様に言われますけど、御神意を頂くたびに未だ待てと言う事であった、それからもう二年以上もなりましょうかね。
 お参りして来る度に、ところがこの頃丁度一月位前だったでしょうか、もう古い家ですよ、自動車が家に飛びこんた゛、飛び込んだと言うか柱を折った訳ですよ、その時にすぐお願にみえましたので、それは梅崎さんおかげ頂きましたのと私が言いましたが、それがどうしても分からなかった、自動車が飛び込んで来たのがどうして、二階からおつるごとあった振動じやったと、それにそれに二階に寝るどんならですね夜中の事ですから、ところがね家を替わらせて頂くきっかけになったのですそれが。
とそれで先方から柱を入れ替えて修繕すれば良いと言う事じやったけども、向こうの方で家では中々大工を雇う事が出来んから、お宅の方でどうか心配して下さいと、と言うてお金を以て来なさった、だがそげん沢山お金は要りませんと言う、兎に角柱を替えて貰えば良いけんで、いえ済みませんけどお願いしますと言うて来られたから大工さんにお願いしたところが、これはもう替えんでよかばのもうやんがて、あんたんところも移らにやんとじゃろうけんで、これはたいした支えになっとる柱じゃなかけん。
 これはこのまま放っからけいときなさいと言う事じゃった、だからそのお金がこんど替わらせて頂くための、一つのお金それにもなった。同時に知った方から家を移らせてもらう、段取りをつけて貰うと言う話しになったで、昨日それを伺いそして頂いたら、そのレールのあるところまで機関車は行っておるのだけれども、真っ黒い煙りを吐いて行きたいのですけれども、レールが先の方に敷いてないと言うところであった。
 だからこんどは梅崎さんレールをしいて頂くんだから、これからやって行ってもいいよと言うので、もう本当に椛目に御縁を頂いてもう一々言うならば、片便の願い捨てでなくて、お伺いをさして頂いて女手一つで本当に細々の商売を、今日迄続けられたのは椛目あっての事、合楽あっての事だったと昨日は御礼でした。
只自動車が飛び込んだ事それはおかげとは何か分かりませんでしたけれども、それは十五日か二十日しよったらそういうおかげのそれが元になった、神様が飛び込ませてくださったと言う事にななった。然もそれに纏まった金が入って、それに移転をすると言うことにでも、おかげで出来ると言うところに外の家に移らせて頂く話しも出来た、同時に一緒の様に市役所から言われて今まで二十万円立ち退き料をやると言われたのが、三十万円にしますけん出て呉と言う事になって来た。
 もうあれもこれも一緒におかげになってきた、レールが敷かった様なもの、今までは真っ黒な煙りがどんどん出よったと言う事は、私はハッキリ覚えませんが、二年余りでしょう、あそこが立ち退きが始まってですから、それがね毎日毎日不安で不安で心配で心配でたまらん、それでも笠さんがあげなおかげ頂きなさったけん笠さんとお家がすぐそばです、お母さんが花屋しよんなさるところ。
 笠さんところがああ言う素晴らしい親先生任せになってあげなおかげ頂きなさったけんと思うて辛抱ができとったところが、私の方も矢張りこう言うおかげを頂いておったと言うて、昨日は感動一杯のお届けでした。もうお金もないありもせん、もうどう言う事になるじゃろうかと思うておった、市役所の方も矢張りちっとはしびれを切らしとったでしょうね、それでもおばしゃん私が別の名目でこうして三十万円もろうてやるけん、別に替えんのと言うて来るのと一緒じやった。
 自動車が飛び込んだのも家が出来たのも一緒じやった、それには二年間真っ黒い煙りをはき通しの状態であった、ここんところを私は思うのに御神意を頂いたらもうそこで安心が出来る位なおかげを頂かにゃいけん、先生はなら古賀さんの場合でもそうです、先生はああおっしやるけれども心配じやったに違いない、だからこそそれを二度もお伺いしたんです。けれども御神意を頂いたのであるから、と安心が出来ると言う事のおかげを頂くために昨日から私が申します。
 金光大神の教えられた所謂み教えを承って、行じると言う行き方になって来るとです、御神意伺って右左と決めて頂くでも安心して親先生が右と仰るからと言う事になって来るのです。だから両方が相俣たなければならな、梅崎さんは何年椛目に御縁を頂かれてから十四、五年間もう一々、昨日はそれを言われました、合楽の先生の言われる通りにしとりゃ間違いの無い、十何年間を通ってきとるけれどもその事だけには不安不安でたまらんで、それこそ真っ黒い煙りが出どうしであったと言うのである。
けれども如何に機関車が真っ黒い煙りが出よったっちゃ、レールが敷かっとらにゃ出来んでしょうが、ところが昨日そこにレールが敷かった様な感じである、そこでです成程親先生の仰る通りにしておけば、安心だと言う、安心のおかげは頂けれる。その事だけについて為に昨日から金光大神の言う事に背かぬ様にと言う、御教えを本気で行じると言うところから、心の中に生まれてくる喜び心の中に生まれて来る。
 昨日茂さんの例をとりました様に本当に私どもの心の中に教えがしみ込んでおる時には必ずお心の中に有難いものがある。その時にはもうすでに問題が問題でなくなってくると言う程しの言わば、巧徳がある訳です、教えを行ずると言う事は黒い煙りを出さんですむのです、それからその二つが相俟って参りませんとです、昨日は私はそげな訳ではなかったんですけれど。
 久富先生と二人で風呂に入っとった、お風呂に入らせて頂いてそれこそつらつら自分の信心の事をじっと考えさせて頂いて、本当に御神意通り神様任せでここ二十年間は生きて来た、それで私はいろんな、医者にいわすれば腎臓もある、糖尿病も悪いいわば足も完全におかげ頂いとると思いよったら、野口さん所の宅祭りの日にあら明日から又足が立たんかなと思う位に足が悪くなった、そう言う内容を私の体は持っておる訳です。
 けれども御神意通りの今日まで御神意を伺い伺いこらして頂いておることですから、私のお国替えは実に神ながらな、それこそ大往生が出来るであろうと私は思った風呂の中で、だからこれはこれからまあ何年生きるか分からんけれども、不自然な事してその病気を直してはいかんな、そう言う事しよると死ぬる時に不自然な死に方になってきたり、きつい思いをして死ぬような事があってはならぬからと思ったです、不自然な養生どもしてはならぬと思うたです。
 そしたら神様がね、それはやけをおこす様なものぞと神様が仰った、久富先生は私が神様との対話です、お風呂の中で、だから先生が何しとられるかと思うとった、だから毎日毎日御神意を伺って過ごさせて頂いておるからそれで良いと言う事じゃなくてです、矢張り一年でも長生きのおかげをいただかせて頂く事のためには、願いもせねばならない、縋りもしなければならない、養生もしなければならないと言う事、養生と言う事は医者に掛かるとが薬に掛ると言う意味ではないです。
 摂生しなければならないと言う事、もう私は神様任せで生きとるのですから何日お国替え頂いてもよい。恐らくは私が死ぬる時は枯れ木が朽ちて行く様に自然の苦しみもなしに死んで、行けるだろうと言う事だけではいけないと言う事です、別に私がやけを起こしとる訳ではないけれども、神様はそれはやけをおこすのと同じだと言う事を頂いた。そうじゃない矢張りこうやってお生かしのおかげを頂いておる。
 そのお生かしがいよいよお役に立つ事のために一年でも二年でも長生きのおかげを頂かして頂く事を願わなければいかん、縋らなければいかん、そのためには体なら体の事でもです、体にこれは為にならない様な大酒大食をして、体をそこなう様な事をしてはならんと言う様な事を、長長とお風呂の中で頂いていろいろ、ですからその御神意を伺い伺いして、只御神意通りしてさえ行けば良いと言う事だけではない様です。
それに教えを頂くと言う事と同時にそれをもう一つ迫力を以てです、今日の御理解で言うなら、天も地も昔から死んだ事なし、此の方が祈るところ天地金乃神様と一心なりと仰せられる、私共の心が生き生きとしてです、お願いをする時生き生きとした天地にこれは金光大神だけではない、私どもでもです、私共が祈るところ天地金乃神様と一心なりと言う程しの、信心に進んで行かねばならんと言う事になりますね、願わにゃいけません縋らにゃいけません、御神意頂くと言うだけではいかん。
 又それだけでも、なら昨日から頂きます様に、金光大神の言う様に背かぬ様に高橋さんの例をとりましたが私は教えをこれ程しに頂いて行きおる、これこそ克明に御理解なんかを書いてゆかれる方も珍しいでしょう、そして教え頂いてゆかれる、然も行き方の上においては子供の自転車を買う、只買うだけではないそれがどう言う形のものを買わして貰うかまで、お伺いして行きよるから。もう完璧の様であるけれどもそれだけでは未だたらん、自分の行き方の上に又は自分の体の上に虫が付いておるならば。
 その虫を取り除かせて貰う願いを立てなければいけないと言う事、それで私は完璧といわれんにしても、そう言う行き届いた信心が要るのだと言う事が分かります。それにはわが心に神がござるから一心をたてれば、おかげになるのじゃと言うその一心を立てて行かねばいけん、わが心に神がこざるのであるから、その神様にいろんな不純なものがとものうておるならば、取り除く事にも一生懸命になってゆかねばならない、わが心に神が御座るから一心を立つればおかげになると言う。
 一心を立てながら、御教えも行じながら御神意も頂きながら、それがね今の合楽では私は出来ると思うのです、そこんところをです皆さん頂いて行って頂きたい、今日は昨日の続きの様な四節から五節でしたからね様な感じでした。このかた金光大神の言う事に背かぬ様にと言う事を、昨日はあれだけの様に思うとりましたけども、これは御神意を伺った事に対しても、矢張りこれを行じて行くと言う事を、今日はそこに特に力を入れて申しましたですね。
   どうぞ